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信仰に至るまでの経緯2 安らぎを求めて教会に行く

こんにちわ。のんのです。

今回も信仰に至るまでの経緯と題しまして、キリストを信じるまでの道のりを書いていこうと思います。

 

 

前回の記事をまだご覧になってない方は、そちらからご覧になってください。

下にリンクを貼っておきます。

 

nonnod.hatenablog.com

 

 

では、続きです!

 

 

 

 

あらすじ

友人を失い心の喪失感を抱えた私。
大学の教授に勧められ教会主催のキャンプに。そこで安らぎを覚える。

キリスト者の集団に安らぎを覚えた私は、根を降ろす教会を探す旅にでることに。

 

家チカの教会へ

まず最初は、下宿先の近くの教会でした。

その教会は信じられないほど人が多く、かなり息苦しい印象でした。

たしか、最初に行った礼拝でいきなり100周年記念礼拝で戸惑ったのを今でも覚えています。

なんだかんだ4ヶ月ぐらいはその教会に行っていたと思います。

 

ですが、最終的にはその教会を去る決断をしました。

何故、安らぎを求めて行った教会を去る決断をしたのか?

 

それは、最初の息苦しい印象が起点となっています。

まるで、白いハンカチに落ちた黒いシミの様でした。

人というのは不思議なもので、たった一つのシミが大部分より目に付くものです。

 

つまり、ほんの少し気になる事が最終的にその教会を去る原因となりました。

私の教会に行く目的は、安らぎを得るためです。しかし、その目的に不都合な点がその教会にありました。

 

3つの不都合な点 

私が感じた安らぎを覚えるのに不都合な点は以下の3つ

  1. 人の目を気にする
  2. 静かにできない
  3. 聴き役に疲れた

 

これだけだと理解してもらえないと思うので、一つ一つ解説します。

 

 

 

どうしても人目を気にしちゃう

まず最初の1.人の目を気にするについて。

子供の頃から一人でいるのが好きな私にとって教会は人が多すぎると感じました。

隣にも人がいるし、後ろにも人がいるしで、もぉー!!何これ?!笑

人じゃなくて神様に集中できれば良かったのですが、それは出来ませんでした。

 

どうしても人目を気にしてしまって、後ろの人に迷惑かけてないかな?とか隣の人に邪魔してないかな?とか考える内に、礼拝前のちょっとした時間が苦痛に感じてしまう事に。。

 

もちろん、礼拝が目的なのでこの問題は大したことないように思えます。しかし例えるなら、喉に刺さった魚の小骨の様に気にしない様にすればするほどその事を考える事になってしまいました。

 

最初は、「礼拝が目的」だったものが「礼拝に参加する人の邪魔にならないようにする事が目的」に変質してました。

悲しいね。

 

 

喋る人と静かにしたい人との共存

次に2.静かにできない です。

これは人によって好みが分かれると思いますが、二種類の礼拝に望む姿勢についての話です。

礼拝前静かにしていたい人と、礼拝前まで交わりを楽しみたい人。

一方が良くて一方が悪いという話ではなく、その二種類の姿勢は共存できるか?という話です。

 

私は礼拝前に静かにしていたいタイプです。

ですが、その教会は結構礼拝前まで喋ってる人が多くいました。

なので、どうしても声が響くんですよね。

喋ってる人たちが少数派だったら、ヒソヒソと喋れるんでしょうが、何せ多くの方々が喋ってるので相対的に大きな声で喋らざるを得ない状況でした。

 

結果として、礼拝に集中するために礼拝が始まる直前に来るようになりました。

 

 

役割としての「聴き役」

最後に3.聴き役に疲れた

教会にやってきた新参者に与えられる仕事は聴き役です。

不条理この上ない事ですが仕事を与える側はそんな事気にもとめていないので、抵抗は諦めましょう。争いを生むだけなので無駄です。

 

さて、そんな聴き役ですが殊の外重労働。

理由は、興味がない事を聞かされ続けるからです。

教会に来ているという事は礼拝が目的なのでそれ以外はオマケです。オマケが目的になるのは子供のお菓子ぐらい。

ですが、教会にもいるんですよ。オマケが目的になってる人が。

 

こんな事を書いている私も御多分に漏れず、教会の聴き役として頑張っていました。

運がいいのか悪いのか、福祉学部だったので人よりは聞くのが上手でした。

相手が言いたい事を受け止めて呼び水を差し出す。

言ってしまえばこれだけなんですが、それが難しい。

 

話を聞いて欲しい人は山ほどいました。

前述した通り、大変賑やかな教会でした、しかしある脆弱性を持ち合わせていたんです。

そう。話す人は多くいたのですが聞く人は極小数でした。

 

構造の歪みと言いますか、礼拝前後の交わりを見ていて非常にバランスが悪い印象がありました。

例えるなら、見た目は立派な松の木ですが中身はシロアリに喰われスカスカ。

 

たしかに賑やかな教会でしたが、会話が成り立っている場面は少ない状況。

そんな状況に話を聞くのがほんの少し上手な大学生が来たらどうなるでしょうか?

いろんな事を教えようと先輩信徒たちが話をしにやってきます。

 

一見するといいことのように見えますが、はっきり言います。

すごく迷惑でした。

 

礼拝に慣れている人は、「あぁ、どっかで聞いたな」とかいう事前の情報があるからある程度飲み込めると思いますが、その説教の言いたい事を全く知らない人からしたら新鮮で情報量が多い物なんです。

そんな話を聞いて、少しでも頭の中を整理したいのに次から次へと話に来られたら困ります。

 

結果として、礼拝が終わったらすぐに帰るようになりました。

 

 

行く意味ある?

これまでの事をまとめます。

1 人の目を気にして「礼拝が目的」だったものが「礼拝に参加する人の邪魔にならないようにする事が目的」に変質。

2 賑やかな教会だったため、礼拝に集中するために礼拝が始まる直前に来るように。

3 礼拝後話しかけられることが多くあり混乱する。説教を読み解くため礼拝が終わったらすぐ帰るように。

 

どうですか?

行く意味ありますか?

私の教会に行く目的は安らぎを得るためでした。

しかし、結果は安らげず忙しい日々でした。

人の目を気にしたり、人の話を聞いたり、礼拝に集中するのに努力したり。

 

目的を得られないと悟った私は、その教会に行くのを辞めました。

そして、新たな教会を求めて再び旅が始まりました。。

 

続く。