クリスチャンのブログー草もちー

クリスチャンが見て「下には下が要る」と安心するブログ

日記  全人類を愛してる人

今日から日記を始めました! 気軽に書いて共有しているので、どうぞ気楽に読んでください。

日記

どんな人間でも、それなりに生きていれば特別な記憶と言うものが生まれる。 例を上げるとすれば、告白の瞬間とか我が子が誕生したのその瞬間がその代表だろう。 特別な記憶は、生きる糧となり困難に立ち向かう根拠となり、しばしば記憶の範囲を超えた意味を持つ。

反対に、どうでもいいとされた記憶はその重要性に反して記憶の彼方へと追いやられる。 おそらく大多数の人間がそうだろう。違ったらごめんね。

しかし、特別な記憶ではないまでも変に覚えている記憶も存在する。 生きる糧にもならず困難に立ち向かう根拠にもなり得ない、いつも覚えているわけでもなければ、だからといって記憶の彼方にも消えない。

そんな記憶。

今回はそんな変に覚えている記憶について書こうと思う。

全人類的な愛を持つ友人

高校生の頃に感じた事だが全人類的な愛は孤独だなぁと感じた出来事がある。

高校生の頃クラス全員が好きという変わった友人がいた。 何が変わっているのかというと、「クラス全員が本当に好き」と言うところだ。

おそらく、「クラス全員が好き」といった趣旨の発言の大半はテンションが上がるところまで上がりきった人の発言だろう。

例えば、合唱コンクール等で優勝したときのリーダーとかね。 実際、その発言の真意は誰も気にしてはいない。 理由は、好きの定義は時と場合と相手によって変幻自在に変化するからだ。

相手に自分の好意を示す言葉。「好き 」 しかし、自分にとっての好きの定義と相手にとっての好きの定義が合致しなければ、社交辞令に成り下がる。

その点、私の友人は社交辞令を知らない人間だった。

本当にクラス全員と付き合いかねない勢いだった。

ポリアモリー(複数恋愛)の様な思想は持ち合わせていなかったように思うが、友人を的確に示す言葉だ。 実際、よく人に囲まれていた。

孤独な友人

そんな人たらしの代表の様な友人だがその実態は孤独そのものだった。

彼の好きという定義もまた他人と合致していなかった。

私はそんな友人を見て可愛そうだなぁと密かに思っていた。

私が常日頃友人を見て思っていたことがある。 悲しい事に多数に向けた愛や好きという思いは、需要がない。

誰でも親以外の誰かにとって特別な存在でありたい思いが存在する。

自分のアイデンティティーを他人に委ねる事の愚かさを知る前はそんなもんだろう。

個人から好意を向けられた際の副作用は、自身を特別な存在だと思いこむ事だ。

実際は他者とそれほど違いはない存在だとしてもその時はそう思える。

ここで、多数に向けた好きという思いと、ただ一人に向けられた好きという思いの明確な違いが生まれる。

個人から向けられた好きは、目に見えて実感できる。

多数に向けた好きは、目に見えても実感できない。

変化

目に見えても実感できない愛を供給していた友人は、需要のない実態に孤独を感じていた。

次第に引きこもっていたわけではないが、どことなく影が掛かったような表情になっていた。

そんな友人を救ったのは、「多数に向けた好き」を「自分に向けられたと勘違いした人」に向けられた好きだった。

ようやく需要と供給の実態が明確になった瞬間だった。

これって、投資で言う所のリスク分散だよね。 そんなことを思った独り身の私。