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【LGBT】 セクマイ差別が無くならない個人的見解【セクマイ】

こんにちわ

のんのです。

 

今回から、セクシャルマイノリティ(以下《セクマイ》と略)当事者の観点からキリスト教会のセクマイやLGBTに関する問題について私の感想書いていこうと思います。

 

 今回は初回ということで私の前提から書いていこうと思います。

それではご覧ください。’

 

私と記事の前提

まず、前提として私はバイです。

これまでブログをみてくれている方々はおわかりかと思いますが、バイです。

重要なので二回言いました。

 

このカテゴリでは、当事者として色々と発信していきます。

ただ、一つ注意。

私は学者でもなければ、おまけに学もないので本当に感想のみの記事です。

手を抜いているわけではありませんが、明確な根拠や詳細なデータとかはありません。

 

根拠とかデータを求める人は、グーグルか図書館で調べてください。

 

 

そして私は、クリスチャンです(○能神じゃないよ笑)

聖書を神様が私達に送られた言葉だと理解しています。

完璧には実行できていませんが、それでも信じています。

 

まとめ

のんのはバイセクシャル

のんのはクリスチャンで聖書を信じている。

 

 

上記のことを念頭に置いてどうぞ御覧ください。

ちなみにただの感想なんで、批判やアドバイスは必要ないのでそこん所お願いします。

 

LGBT、セクマイが罪?

さて、LGBT、セクマイに関する問題は教会の中もしくは信徒間の中で未だに話題になっていますよね。

 

結論から書くと、聖書を根拠とするならば、LGBT、セクマイは記載されてないからグレー。と私は思っています。

そもそも言葉や概念がないからね。

 

ただ、男同士の同性愛の性行為について反対している箇所は多くあります。

そう。性行為について反対している。

 

日本語のまま読むなら、同性を愛することには問題はない。はず。


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*1

 

 

つまり、聖書の語る言葉を正確に表すなら「男性が同性を愛することと男性同士の性行為は別問題」となる。

 

 

現代でもこの問題が拗れる理由

前述したとおり、同性愛傾向と同性と性的な関係を持つことを同一視しているのは聖書的ではない。

エスだって同性に愛を語っていたからね。(愛の種類に関して疑問は残るが)

 

この問題が拗れる理由は「愛と性行為を同一視した結果起きた認知の歪み」が原因だと思う。

 

人間が人間に抱く愛は、異性に限定されたものではないのはクリスチャンの皆さんだったら、もうおわかりですよね?

聖書には愛に関する記述が多くあります。

それらを読み解けば、愛が異性に限定されたものではないのは理解できるかと思います。

 

しかし、LGBT、セクマイに関する問題になるとそれが理解できなくなるのかと疑問が浮かぶぐらい性行為と同性愛を同列に語るのです。

 

同性同士の性行為の性病罹患率を引き合いに出して同性愛者を差別する人を見かけることも少なくありません。

 

全く聖書的ではないと思います。

聖書を自分の思想に基づいて取捨選択している卑劣で許せない行為です。

 

 

 

どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

 

 

そんなかんたんには差別はなくならない

いつからか人間の心に差別が生まれました。

それは違法薬物のようです。

まさしく血の滲むような努力の末それから離れていても、ちょっとしたきっかけでもとに戻ります。

ストレスや快楽に負けるのが代表的な例ですが、本質的には自分をやめれないんです。

 

差別をしていた自分をやめることができないんです。

 

例を上げると、セクシャルマイノリティを差別することによって優越感に浸っていた人は差別をやめることはないでしょう。

差別がしたいわけではありません。

優越感に浸れないのがイヤなのです。

 

そういった、差別になぜセクマイが使われるのでしょうか?

理由は非常にかんたん。

異性愛者はセクマイの問題には無関係を装えるからです。

換言すれば、安全圏から口出しできるのです。

 

自分の問題は誰もが直視したくありません。

直視しているつもりでも、間違っていたり的がずれていたりします。

どこかで、自分を変えたくないという心理が働いているのかなと邪推します。

 

上記の心理を回避してなおかつ優越感に浸れる方法があります。

それが、自身の思想に基づいて他人のアドバイスをすることです。

それに明確な根拠があればなお強力です。

 


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*2

 

 

 

差別をなくすためのかんたんな方法

さて、そんな差別ですが救いの道が存在しています。

聖書を根拠にしているという条件付きですが、、

 

その方法は、罪の細分化するのをやめて罪を大枠で捉えればいい

そうすれば、差別はなくせます。

 

例えば、性に関する罪は全部性的な的な罪。

自慰行為も罪だし、他者を性的な目で見るのも罪。

こうすれば罪人同士の争いを避けれます。

 

差別意識さえなければ罪人同士の争いがいかに無意味なものかわかるはず。

罪深いとは重ねた数ではなく0か1かの概念なので、みんな罪人。

 罪人同士裁き合わずに励まし合い素直な心情をさらけ出し会える関係さえ結べたら、少しはこの現状を改善できるのかなぁと思います。

 

 

のんの。の考え

最初に記述したとおり、私はクリスチャンでありながらバイセクシャルです。

今はもうやめましたが、多くの男女と肌を重ね合わせていました。

 

きっかけはいつかブログで書こうと思いますが、友人のクリスチャンの懸命な祈りがきっかけでした。

まぁ’、あんだけ必死に祈られたら自身の行動を考えるよね笑

 

でも、葛藤や怒りがなかったわけではありません。

「なんで、生まれつきのものをかえなきゃいけないんだよ!!」

「神様がそういうふうに俺を作ったんだろ!!」

あいつだって罪人のくせに」

 

こんな風に怒ったこともあります。

 

最終的には自分の意志でそういった生活から離れました。

自分の意志で離れることが重要だと思います。

 

いらぬ世話で人が変われば苦労しません。

知り合い程度の関係性のアドバイスで人が変わったら今頃世界は平和になっています。

 

わたしが変われなかったように、世界が平和にならないように問題にはその人にしかわからない部分が必ずあります。

 

 

わたしは、セクマイの人々が全て異性愛者になりクリスチャンになるという幻想は抱いていません。

理由は異性愛者のクリスチャンもゴミ同然の罪人だからです。

懸命に祈ってくれた友人もゴミ同然の罪人でした笑

つまり、みんな罪人だということを伝えたいです。

 

 

でも、聖書を信じるなら、いずれはその問題と対決しなくてはなりません。

対決の結果は、悲惨なことが多いです。

ある人は、財産を手放すことに、ある人はアイデンティティーを捨てることに。

 

その結果はおそらく一生。良ければ数年の間は苦痛をもたらします。

それでも、神様は猶予とチャンスを与えてくれるとわたしは思います。

 

その神様を信じるなら信頼していきましょう。

 

例えその神様を信じられないとしても死ぬまでチャンスはあります。

 

 

最後になりますが、LGBTやセクマイの人に対する差別は聖書的ではありません。

差別をしても争い以外は生まれないからです。

信仰も生まれず理解も発生しない対立は無意味です。

 

理由があるとすれば、LGBTやセクマイのクリスチャンが存在する理由はそこにあると思います。

異性愛者にはわからない問題や苦痛を理解するために私のようなクリスチャンが存在しているんだと考えています。

 

それで対立がなくなるとは思いませんが、少しでも差別がなくなるならわたしが今まで苦悩してきたことも多少の意味が生まれます。

確信はありませんが、今はそう考えています。

 

 

 

 

 

 

 

*1:聖書が語る同性愛禁止の概要。驚くべきことに「同性」の文字を間違えている。

*2:聖書を攻撃に使う人の思考プロセス的なもの