クリスチャンのブログー草もちー

クリスチャンが見て「下には下が要る」と安心するブログ

日記  聖書理解と自由意志。最後に弱い私達の強み。

こんにちわ。

のんのです。

 

 

昨日は(2020/07/15)夜勤だったのでブログお休みしてました!

いやー、実際ブログは夜勤中に書けなくもないんです。

ただ、仕事終わった後に疲れるのですよ。

そうなったら、次の日も疲れが取れずに仕事に行く羽目になるのです。。だから休みました。。

言い訳終わり!!

 

さて今回は、伝道が起こす影響について。もう一つは聖書理解と自由意志について個人的感想を書いていこうと思います。

感想なんで、学術的なことは書いていません。

 

学術的なことを求める人は論文を読んでください。

 

では書いていきます!

 

 

 

 

伝道の「加害者と被害者」

教会というコミュニティの存在意義を考えたときに、私は「教会の周囲に存在する人たちに福音を伝える事が教会の存在意義だ」と考えていました。

 

今思い返すと、非常に短絡的で思慮浅い考えだと戒めを込めて自嘲。

 

残念ながら、私含めてクリスチャン又は教会には、特定の立場の方に対して加害者性があるのは認めなければならない。

最近そう考えるようになりました。

 

例えば、銅像を拝む系の宗教に対しては対立しかねない聖句がある。(出エジプト記31:18 Ⅰコリントの信徒への手紙10:14〜22)

 

これは、どうしょうもない。

銅像を拝む宗教に対しては配慮してその箇所を聖書から無かったことにするのは完全に間違い。

だからといって、そういう宗教を完全否定するのもいかがなものか?

お互いの信じるものの違いで、で争いの極みである戦争が起きたことも無くはありません。

 

どちらかが良いかどうかを決めるのは私達では荷が重すぎます。

良いか悪いかの二元論で語るには、両者の歴史と背負っている社会的責任はあまりにも重くそして深い。

 

ここは、お互いの違いを認めてソーシャルディスタンスを守るのが得策だと私は思います。

逃げていると言われればそれまでですが。。

 

 

 

さて、キリスト教アイデンティティは神にあるとされています。

神には間違いがない。それは終身名誉ダメダメクリスチャンである私も信じています。

 

ここで伝道という問題が浮かび上がります。

クリスチャンには、福音を述べ伝える命令、換言すれば使命がありますね。(マタイ28:19-20)

 

皆さんは、伝道をどうお考えですか?

私の偽りならぬ心情を語るならば「加害者になり得る事を認めたくないからしたくない」

ましてや、私の場合はセクマイの部類に入る人間なので仲間内にこそ伝道しなければならんのですが、未だに二の足を踏むことも少なくありません。

少し、伝道が起こす影響について考えてみましょう。

 

伝道が起こす影響について

伝道には、構成する存在が2種類います。

教える側と教えられる側。

立場としては、教えられる側の方が弱い場合が多いように感じます。

 

というのも、教える側は伝える物事にそれなりの知識を持っていますが、対して教えられる側は知識を持っていないか教える側に遠く及ばない程度の知識しか持ち合わせていません。

 

教えられる側は、教える側に反論しようにもどうやって反論したらいいかわからない場合があります。

また、反論したところで更に反論される事がほとんどだと思いますので、多くの人はその伝えられる物事を仕事にしていない限り面倒になって伝道やそれにまつわる議論をやめてしまいます。

Twitterでよく見かけますね😁

 

つまり、伝道の影響とは「全く平等である立場に上下の格差が生まれてしまうということ」です。

平穏無事な関係や生活を望むのであれば、伝道はその関係や生活を阻害する要素かもしれません。

そんな風に私は考えます。

 

 

セクマイに対する伝道と聖書理解

さて、上記に記した「伝道の影響」をセクマイに対する伝道として考えてみましょう。

 

 

セクマイは全く持って残念な事に聖書では禁じられている場合があります。

 

その為、セクマイに反対する立場を誇張して伝える方々も多く見られますね。主にネットで。

 

聖書を明確に伝えられている、けども個人的には間違いだと思います。

 

間違っているのは、伝える順番です。

聖書にはその人によって伝えるべき順番があると個人的には思います。

 

例えば、赤ちゃんに「あなたは罪人です」と言っても意味がないように、聖書理解がない人にいきなり同性愛者反対すると言っても意味がないのです。

何故かというと、聖書の伝えることを理解できないのです。

 

聖書を信じていない人からすれば、聖書はお伽話か神話の類というカテゴライズにある書物です。しかも分厚い。

 

なのであくまで一例ではありますが、同性愛を聖書が罪とされている事を伝えてから神様の事を伝えるのでは効果が無いどころか逆効果です。

 

もっと言えば、その人の自由意志を全く無視しています。

これは越権行為。

神様が作った自由意志を無視するのは聖書的ではありませんね。

 

じゃあどうする?

 

 

自由意志と伝道

伝道の型は、イエス生き様です。

聖書に記されているように、イエス様は言葉だけではなく行動で聖書を伝えていました。

 

ですが我々はイエス様ではないので、完璧に真似をする事はできません。

なので少しでいいから、行動するとかまずは言葉からでもいいので、聖書を伝えたいと思う人がこちらに興味を持つまで、自身の生き様や言葉で示し続けるしかないと個人的には思います。

 

まずセンセーショナルな短略的な伝道は、現代日本にそぐわない。これは断言します。

 

伝道の本質は、幼い頃から慣れ親しんだ考えや教えに疑問を持つことだと思ってます。

いきなり、今までの考えを捨てられる人はいません。

居たとしても、人の目を気にしていたり環境に馴染むための防御策として周囲の人間や自分自身すらも騙している可能性があります。

 

世の教えが体に染み込んでいる以上、長期戦を想定した伝道が求められる。そんなふうに私は考えています。

 

短絡的伝道の弊害についての感想

短絡的な伝道は、自由意志を尊重しているとは個人的に思えません。もちろん、むりやり信仰させるのは論外として。

他人の思惑や演出を自分の意思だと錯覚させているに過ぎないと個人的に考えています。

 

現に信仰の寿命は3年だと言われています。

3年経つと仕事や結婚で信仰から離れてしまうとのこと。

 

3年って、、

俺が通ってたスイミングスクールよりも短いですよ!!

 

本来、信仰は寿命が無いはずなのに三年という寿命が発生するのは短絡的な伝道が原因だと思います。

 

重要な事を教えていないのか、はたまた信仰を覚えたのに安心して放置していたのかは分かりませんが原因の一つであると推測します。

 

もちろん伝道している側に悪意があったとは微塵にも思いません。

現在の日本の環境、教会との相性の問題を考えると致し方のないことなのかなとも思います。

 

こうした解決策のない様に見える問題に直面したときこそクリスチャンの強さが生かされるのかな?

少くとも私はそう思います。

 

解決策なんて考えつかないけど、神様に祈ることしかできません。

それでいいのだ。

弱い私達の強みは、神様にあるのだから。