クリスチャンのブログー草もちー

クリスチャンが見て「下には下が要る」と安心するブログ

信仰に至ってから1 陰口と信仰と。

こんばんわ。

のんのです。

 

ついさっき【信仰に至るまでの経緯】の最終回を投稿したばかり

 

nonnod.hatenablog.com

 

なんですが、今日と明日休みなんでテンションが高いうちに書いちゃいました笑

 

さて、今回からは新シリーズ【信仰に至ってから】を書いていきます。

このシリーズは、信仰に至ってもなお間違いや空回りを続ける私について書きました。

 

残念なことに、信仰に至っても劇的な変化があるわけではありませんでした。

おそらくこのブログを見てくださっているほどんどのクリスチャンの方は、信仰を覚えてからも失敗しているかと思われます。

けど、安心してください!!

私もそうですから!

 

もっと言えば、十二使徒の皆さんだって失敗しているわけですから私達も同じことしてもしょうがないですよ。

にんげんだもの

 

それでは、書いていきます。

 

 

信仰を覚えても、喜びに溢れることもなく過ごす。

信仰を覚えてから数ヶ月の月日が流れていました。

その後の生活は言ってしまえば、信仰を得る前となんら変わらない日常。

「あのときの安心や喜びは一過性の熱病のようなものだったのではないか?」

そんな杞憂まで抱く始末。

 

これはあるあるだと思いますが、今まで失敗だらけの人生を歩んでいると順調すぎると逆に不安になってしまう。

当時の私はそんな状況でした。

 

変化した点を強いてあげるとすれば、よりクリスチャンに信頼を置かなくなった。

というのも、クリスチャン同士の陰口合戦に巻き込まれてたのです!

 

 

クリスチャンの陰口に辟易する。

幸い教会内の出来事ではなかったんですが、学校内とか友達同士で巻き起こった陰口合戦。

 

表ではとっても仲良しで、教会内やキリスト教共同体内の評判も非常に良いものが合ったはずの彼ら彼女ら。

実際、Facebookで彼ら彼女らが一度投稿すれば数百のいいねや数十件のコメントが記載されるぐらいには人望というか人が集まっていました。

実際その時の私は、彼ら彼女らと親しい間柄になったとき「なにか一つでも学びになることがあれば盗んでいこう」と意気込んでその人達の話をインタビュアーのように聞いていました。

 

そんな風に話を聞いていたのが間違いだったのか、今となっては知る由もありません。

しかし、話を聞くにつれて徐々に彼ら彼女らの態度が変わっていきました。

 

最初の異変は「上から目線」でした。

嫌な講演家みたいに自信たっぷりで人の目を見て話さずに、私というよりは「私を通して全体に話しかけている」そんな印象を受けました。

 

極めつけは「自分の意見を押し付ける様になった」でした。

私は、「意見を聞くために話を聞いていた」のですが彼ら彼女らは「自分の意見に従順に従う」人間だと捉えていたように思います。

 

結果として、彼ら彼女らが互いに抱いていた不満をぶつける対象に私はなっていました。

 

その時の私は、陰口に対して聞くことしかできなかった。

それが信仰ある人の行為だと思っていたから。

 

そう思ったらそう。

思考停止と言われればそれまでかもしれないけど、その当時はそれ以外考えられなかった。

 

例え、どれ程他から見たら滑稽な有り様でも。

 

そうして私はクリスチャンがキリストに信仰を覚えた一枚岩の組織ではないことを、知った。

 

信仰に神様が答えてくれた!!・・・のか?

そんな陰口を甲斐甲斐しく聞いていた日々。

やがて、ある変化が私の身に起きていた。

 

そう。

いつの間にか、私の評判が良くなっていたのだ!!

もともと、目つきが鋭いため煙たがられていたがそんなやつが甲斐甲斐しく話を聞いていたのが周りの目に写ったらしく、珍しがられた結果「話を聞くいい人」という思わぬ評判を読んだらしい。

 

ちょっと悲しいけどね。

意外とみんなは人の話を聞かないらしい。

まぁそれは最初に通った教会で体験済だが。。

 

そうして、信仰の報酬(?)を受け取った私は、性懲りもなく有頂天に達していた。

 

 

続く。’