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信仰に至ってから3 信仰マウントで悩みに悩む。

こんにちわ。

のんのです。

 

先日のブログ記事大変多くの方に見ていただけてとっても嬉しいです!!

わたしが書いた記事で一番多く読まれました!!

 

またまた、ツイッターのDMやリプなどで「ブログ見ていますよ!」って声をかけてくださる方が最近増えていて本当にモチベーション上がりますね!!

 

これからもマイペースに投稿していきますのでよろしくおねがいします!!

 

さて今回は、「信仰に至ってから3 信仰マウントで悩みに悩む」です。

昨日Twitterでこんなことをツイートしました。

 

結構な数のイイねをいただきました。

きっと、皆さん似たような経験があるのかなと想像しています。

今回の記事では、そんな「信仰マウント」について個人的な考察を書いています。

 

早速書いていきます!

 

 

あらすじ

信仰に至ってからクリスチャンの陰口合戦に巻き込まれる。

話を聞く事しかできない私はただ耐えて話を聞いていた。

そしてついに周りから評価される!!

 

nonnod.hatenablog.com

 

評価されても素直に喜べない自分。

そんな自分に先輩信徒がかけてくれた一言。

その一言で元気になった私。

意気揚々と自分の経験を語るが、、 

 

 

nonnod.hatenablog.com

 

 

 

 

「私が」信じた神様
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私が信じただけのことはある神様。

おかしい。発言自体はオカシイ点はないが、何か違和感を感じる。

違和感の正体は、フォーカスのズレだ。

 

 

神様にフォーカスが向いてない。。

私にフォーカスが向いてる。

しかし、私は、面と向かって指摘するほどの勇気も蛮勇も持ち合わせていない。

 

ほんの少しの違和感を抱えたまま、もう少し人数が増えたコミュニティで再びその人に出会った。

 

その人と会話すると、「私の知り合いで~祈ったら~」「私の姉妹信徒がこんな困難にあって〜祈ったら〜」みたいなエピソードを連発。

 

私はそれに相槌を打ちながら、時計の秒針が動いているのを見ていた。

それだけでも辟易なのにそこに牧師の息子さんがやってきて

「ねぇねぇ。一旦聖書に立ち返ろうよ!!ヨブはこんなに苦難に会ってることを考えると俺達は大したことない!!」

みたいな演説を始めた。

 

これにはさすがの私もまいった。

 

 

なんだこれ?

他人のふんどしで相撲どころの騒ぎじゃないぞ!!

 

 

他人の信仰でマウント


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このときの会話が私にとっての信仰マウントの原風景となった。

ちなみに登場人物が全員福音派だったので、未だに福音派に対して警戒している原因はここになる。

 

話を戻して、信仰マウントのなんと悲しいことか。

 

「あの人の方が、苦難にあっても祈ってた。」

「あの国の人たちのほうが、日本に比べて大変なのに信仰がある。」

 

「自分の首を絞める」という言葉があるがよく言ったものだ。

自分が結構辛い目にあっても認められないんだもん。。

まさにその言葉通りではないでしょうか?

 

 

結局、人の話を聞く位しか人前で話せる話がないので結局人の話を聞いてばかり。

偉大な証を自分ごとのように話す人達が何をしたのかを知らないまま。

 

なんとも言えない感情を感じつつも、あの人達が何故そんなことをしたのかを自宅で考えてみた。

 

そうして考え出したのが以下の結論だ。

「信仰マウントは不得意に注目した優位性保持のための行為」 

 

信仰マウントとは?


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大きく話は脱線しますが、信仰マウントがなぜ起きるのか?

当時私が考えた事を整理してまとめました。

 

信仰マウントがなぜ起きるのか?

原因は、「優位性」

 

信仰マウントが起きる原因は「優位性の保持」

優位性の根拠となるのは、もちろん聖書。

 

「信仰マウント」は換言すれば「聖書からズレた存在を指摘する行為」でもあります。

 

なんの根拠も無くマウントを取るなら信仰という属性は付きません。

聖書を根拠としているから「信仰」という属性が付与されるのです。

 

信仰という属性

さて、「信仰」という属性はマウントにどういう「効果」をもたらすのか?

それは、「絶対的な正解を追求し続ける効果」をもたらします。

 

聖書の言葉は神様の言葉だと私は思っています。

聖書を信じるということは、生きてる内は終わりの見えない追求が始まる。

クリスチャンの皆さんは知っての通り、信仰に終わりはありません。

 

終わりがないと言うことは、聖書の言葉は人間には達成不可能な部分があると思っています。

 

これは、神様が意地悪をするためにそうした訳ではなく誰も驕らないため。つまり、マウントを取る人が出てこない様にする為です。

 

しかし、人間には得意不得意があります。

 

得意不得意

文字を用いた表現が得意な人もいれば、話すことで真価を発揮する人もいます。

どちらかが良いというわけではなく、活かせる状況が違うというわけです。

 

この特性が聖書にも適応出来ると私は考えています。

例えば、同じ様なムカつくことがあってもすぐ許せる人と許せない人がいます。

 

すぐ許せる人は優しく柔和な人。

許せない人は意思を貫く覚悟がある人。

 

意思を貫く必要がある場面では、優しく柔和な人は優柔不断と捉えられる場合があります。

その時には許せない気持ちも必要になるかも知れません。

 

御心を現せる状況が違うわけですね。

 

信仰マウントの本質

さて、信仰マウントは上記の人間としての得意不得意の「不得意」に注目した行為です。

更に、自分の意向がそれに重なります。

 

例えば私が経験した例で言えばですが、、

親戚の葬式に行く際に、世話になったという義理があるので参列した所、「神様悲しんでるよ。私なら行かない。丁重に断る。」というお言葉を頂きました。

 

上記の一連の流れを「信仰マウントの本質」に沿ってまとめると以下のようになります。

 

マウントを取った人は、他宗教の宗教儀式に参加してはならないという考えがあり、私に断ってほしいという意向があったと思います。

そこに聖書の存在を付け加えると、上記の言葉になります。

 

私は確かに葬式の参列において聖書に基づいた判断はしていませんでした。

無意識に聖書抜きに行動をしてしまう。

他宗教の葬儀への参列が罪かどうかは置いておいて、聖書知識への希薄さ。

これが私の不得意な部分です。

 

私の不得意な部分2。

それに対してマウントを取った人の1。

上記の2つを混ぜると私が経験した例になります。

 

更に付け加えると、マウントを取る側の意向や思想によってマウントに違いが出てくることも予想されますね。

ですが本質は変わらないと思います。

 

どうですかね?

当たらずとも遠からずだと思います。

 

簡単なまとめ

信仰マウントは信仰上の「優位性の保持」が原因で行われる行為で「優位性」の根拠は聖書。

聖書は「ただのマウント」に「信仰という属性」を付与する。

 

「信仰という属性」の効果は「終わりなき追求」

信仰に終わりはない。

終わりがない以上、人間には達成不可能は部分が少なからずある。

その理由は恐らく奢る人が出てこないようにする為。

 

しかし、人間には得意不得意が存在する。

今思いついたけど、文系理系がいい例かも??

つまり、活かされる状況が違う。

 

信仰マウントの本質は活かされない状況、不得意な分野に注目した行為で、そこにマウントを取る側の思想や移行が重なり人によって同じ種類のマウントとは思えない様な差異や変化をもたらす。

 

どう?個人的な考察ですが。

繰り返しになりますが、当たらずとも遠からずの考察だと思います。

 

 

 

悩みに悩んだ結果、攻める。


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さて、そんな事を考えていた当時の私は義憤の念に駆られつつも迷走を始めていました。

 

というのも未必の故意による隠れた自慢やマウントに疲れたを覚えていました。

同世代の太鼓持ちってストレス貯まるんですよね。

 

ですが、そんな状況を打開できるほどの実力も派手な実績も無いので、将棋で例えれば「詰み」の状態でした。

 

何とかできないかな、と思案を巡らせていたところ、将棋の台をひっくり返して対戦相手にパンチを喰らわすような妙案が浮かびました!!

 

そう!!

ここで攻勢に出るために個性をいかした行動に出ることに!!

 

そして、ミッケの作者や世界各国の迷宮作者も真っ青の迷走に出るハメに、、、

 

続く。